(あとがきより)いのちの危機や精神の危機が迫ると、人は幼児へと還ってゆきます。文字言語の水準から音声言語の水準へ還り、ついには叫びと身振りの水準に至ります。科学的生活からスピリチュアルな生活へと移ります。自他の分別の定かでない状態が現れます。
上記のような状態の患者さんに対し、神田橋先生は「察知」を駆使して、そこにある仮性幻覚の世界へ入り込んでいきます。文字言語と科学的思考は必須としたうえで、しかしそれだけでは対処できない世界があるのです。ロジカルに、可視的に、エビデンスベースドに生きることが求められるビジネス社会でも、この事実を忘れてはいけない気がするのです。
「ともにある 湯布院・緩和ケアの集い」神田橋條治著
意欲が出るときついよ。
ますは人間と人間が出会って、そこから患者というロールと職業者というロールとの出会いが付加的にできてこなくちゃ。
一番優れた技術とは、一回こっきりで二度と使われない技術のことです。
「も」という助詞を使はったときは、言われていない何かの方が大事。
「わからんちんでいるのがいい」というところを目指さんといかん。なんでも洞察、洞察というのはいかんな。洞察という恫喝になる。
あなたがここで、この人と会って勉強になったということを、この人が知れば、それが一番のサポートなんですよ。
何かしたがるのよな、したがる心理療法家は。
重症な人との対話のあとは、仲間うちで話をしたほうがいいよ。そうでないと一人で担いだら、身体を壊すか、自分の背負ってしまった邪気を他のクライエントに分散してしまって、ろくなことはない。
ファンタジーを少し現実とつなげていく。
やっぱり語尾なんです。語尾からどれだけ読むか、それによってこちらの対応が変わってくるわけ。
謎解きを提案するということは、人間が人間に対して行う介入としてはちょっと行き過ぎではないかと思うんだ。謎を解きたいという感じがね、この人の中に出てこなかったから、やっぱり指摘を控えるのが、技術乱用にならないために必要ではないかと思うので。