森田療法は日本独自の心理療法である。不安や緊張はして当たり前という前提に立ち、あるがまま(学友が「ありのまま」と言ってアナ雪じゃないと突っ込まれていたな…)の自分を受容し、目の前の作業に没頭することで、とらわれの機制から脱することを目指す。雰囲気は今流行りのマインドフルネスに似ているが、西洋発祥のマインドフルネスは二元論で不安をコントロールしようとし(瞑想などにより今この瞬間に集中し、不安の先に意識を向けることで不安を消そうとする)、森田療法は一元論で不安を不安のまま扱おうとする点で違っている。

4月から計10回の森田療法学会セミナーに参加しているが、聴講と書籍で理論の理解は進んだものの、この療法、どこか実用感が持てないでいた。第6回講義「過適応性格の神経症水準のうつ病患者への外来森田療法」を受けて、こういう人にこんな感じで取り組んでみたらいいのかもと、やっと少し輪郭をみた気がした。

ここでいう過適応性格とは、例えば人からの頼みごとは全て断らないでやってしまうとか、自分に対していつも達成不可能なハードルの高い目標を設定してしまうとかを無意識に行なっている人を指す。繊細で根本的な自己肯定感が低い方に多く、生(せい)への意欲が強いがゆえの傾向だと言える。

過適応の人は総じてうつになるのが苦手である。

うつは本来、自然体になって休めば、自然に回復する。うつであることにあらがい、いつも通りの行動をしたり、気分を持ち上げようとすると、返って悪化して長引くことになる。そう、過適応の人は自然に休むことが下手なのだ。うつは主に仕事の仕方や、対人関係の取り方の行き詰まりの結果として生じる。過適応的なやり方を修正しなければ、またすぐに再発することになる。

森田療法は人間のあり方を「正常/異常」ではなく、「自然/不自然」という枠組みで理解しようとする。過適応は不自然である。不自然な考え方が結果的に苦悩を強める。本来自然な現象を「かくあるべし」「かくあってはならない」と自分の考え通りに支配しようとすれば、結果的に思考と逆のことが起こってしまう。

初期の心理面接では無理している場面のエピソードを取り上げ、それが不自然なことだと気づかせる。何回かセッションを重ねるうちに、自ら気づいて言えるようになってくれば御の字だ。生活面での行動が整っていけば、こころも後から自然に整ってくる。しかし、過適応で強迫的な生活のスタイルを修正するのは、容易なことではない。今までこれでやってこれたのだから、そうした成功体験を崩すのは大変な困難がつきまとう。適応的な人ほど難しい。

セラピストが根気強くクライエントのゆれと危機を積極的に取り上げ助言し支えていくと、面接は次第に緩やかなものになっていく。気分の落ち込みや不安を感じたままでも自然な行動がとれるようになってくれば、随分と良い方向に転がり始めたと言っていい。

森田療法の原則である「自然にあるがままに生きる」とは、単なる受け身で静的な理念ではなく、自発的でダイナミックな行為である。ここに創始者である森田正馬の一文がある。

要するに、人生とは、苦は苦であり楽は楽である。「柳は緑、花は紅」である。その「あるがまま」にあり、「自然に服従し、境遇に従順である」のが真の道である。(森田正馬)

自分の中で森田療法がいまいちピンとこなかったのは、「あるがままって悟れってことじゃん」と思っていた節にある。しかし講義を通じて、悟りは「苦も楽も無である」、森田療法は「苦は苦であり、楽は楽である」という違いに気がついた。我々は釈迦や仏陀ではないので悟りは開けないが、苦を苦として楽を楽として受け容れることはできるかもしれない、そんな気持ちになっている。


cocoro no cacari|大塚紀廣

1976年千葉県生まれ。大学卒業後、第二新卒で(株)リクルートに入社、国内旅行情報じゃらんを担当した。その後同グループであった(株)ゆこゆこへ籍を移し、人事部で人材採用、社員研修の企画運営、ストレスチェック実行者等を担当した。40歳で退社し、臨床心理学大学院へ進学。修了後は東京大学医学部付属病院老年病科、都内のメンタルクリニック等で心理士業務に就き、現在に至る。専門は高齢者臨床と産業心理。趣味はロードバイク、サッカー、ジェフ千葉、漫画、温泉など。