随分と前に、心理カウンセリングルームに駆け込んだ経験があります。当時、どうにも苦手な人がいましてね。見栄っ張りで、自分至上主義で、ロマンチスチトなのにロジカリストぶるところなどが本当に嫌で笑。人間関係に苦しんでいたのです。

ひとしきり胸の内を明かし、私の中に落ち着きが出てきた頃に、臨床心理士の先生はこうおっしゃいました。

「お話を聞かせていただいていて、『シャドウ』という言葉が思い浮かんできました。シャドウとはユング心理学でいう、あなたの表側には出てこなかった、裏側にいるあなたのこと。苦手な人はあなたの裏側に似ていませんか。あなたが否定した自分をその人に重ねて、羨望と憎悪の感情を向けているように感じました。」

「ほーん。」という感想だったのですが、今でもそう言われたことを覚えているんですよね。わかる気もするし、本当にそうだろうかという気持ちもある。

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現代心理学の始まりはヴントの要素主義心理学と言われており、それを批判する形でゲシュタルト心理学や行動主義が展開され、時を同じくして精神医学からのアプローチで大きなムーブメントを起こしたのがフロイトの精神分析学である。その弟子であったユングは、のちに門下を離れて分析心理学を提唱する。

フロイトの理論はもはや古典で令和時代では通用しないかといえばそんなことはない。全てを性的衝動から解釈する考えは偏り過ぎだが、無意識、抑圧、固着、自我の強化、防衛機制、転移と逆転移など、人間の言動を理解するひとつの型として、少なくとも私は参考にして臨床に挑んでいる。100年以上前の理論が今でも使えるのだから、人間の普遍性ってやっぱりあるのかなという気持ちになる。

普遍性という部分では、ユングも偏ったことを考えた。各地の神話の類似性に触れ、無意識には集合的無意識という人類にとって場所や時間を超えた存在(=元型)があり、人間の精神世界には先祖代々DNAレベルで受け継がれたものがあるというのだ。成長過程の環境要因の影響はあると考えるのが妥当なので、DNAだけというのには賛成しかねるが、元型に関しては壮大なロマンを感じる。ちなみに上記の「シャドウ」はこれのひとつで、対になる元型は「ペルソナ」である。

ロマンの最たるものは夢分析ではないだろうか。フロイトもユングも夢分析を心理技法として取り入れている。私は夢分析を積極的にはやらないが、嫌いではない。夢なんか非科学的だと一蹴するにはもったいない。夢をメタファーとして解釈することで、個人に良い影響を与えることは少なくない。科学の良さがある一方で、非科学的な良さというものもある。

臨床心理は、倫理さえ守っていれば、クライエントの心理的困難が少しでも良くなればどんな手法を取ってもよしとする自由さがある。そこが好きだ。人のこころに対して、すべて科学的なアプローチで迫る必要はない。明確でない曖昧さを抱えながら柔軟に大きく構える姿勢で臨んでいくのです。

P.S.
告白しておきますが、臨床心理士の先生のご指摘は当たっている。私には(それをあまり良いと思わない)見栄っ張りで自己中のロマンチストな部分がある。


cocoro no cacari|大塚紀廣

1976年千葉県生まれ。大学卒業後、第二新卒で(株)リクルートに入社、国内旅行情報じゃらんを担当した。その後同グループであった(株)ゆこゆこへ籍を移し、人事部で人材採用、社員研修の企画運営、ストレスチェック実行者等を担当した。40歳で退社し、臨床心理学大学院へ進学。修了後は東京大学医学部付属病院老年病科、都内のメンタルクリニック等で心理士業務に就き、現在に至る。専門は高齢者臨床と産業心理。趣味はロードバイク、サッカー、ジェフ千葉、漫画、温泉など。