私の修士論文研究のテーマのひとつは「死生観」。物心ついた時からずっと自分の片隅に居続ける「死」は、私の人生のテーマでもあるのかもしれません。
幼少期に恐れていたものは、お化け。その理由は生きていないから。生きているものは自分も生きているからわかった気になれるけど、死の側は体験がないのでわからない、想像がつかないから怖い、こんな感じでしょうか。今なら生きてる人間のほうがよっぽど恐ろしいと思いますけどね、死んでる人は悪さしないし。
死生観研究でわかっていること
論文の執筆にあたり、先行研究論文をいくつか読みました。「死に対する恐怖は、成人中期から加齢とともに低下する」という報告は興味深かった。人は死が自分にとって未知で遠い存在であるほど、死に対して恐怖を抱く傾向があるようです。私の今回の研究でも同様の結果が出たので、そうなんでしょう。
43歳の私感で云えば、確かに恐怖は薄らいだけど、得体の知れなさは相変わらずだし、この世の中で唯一「絶対」って言い切れる事って「生まれたら死ぬ」って事だけだから、死は受け入れるしかないよなあ、と言いくるめてる感じです。
「90年代までの死生観研究では、主に死への不安や恐怖に関心が集中したが、90年代終盤からは多元的な死に対する態度研究という、日本独自の研究が始まっている」と述べた論文がありました。死に対する態度。その定義を、ある学者は「生命や死に対する自己評価や位置づけ、心構えとも考えられるもの」とし、またある学者は「生と死にまつわる評価や目的などに関する考え方で、感情や信念を含むもの」としています。
私の研究で使わせてもらった「中高年版死に対する態度尺度」は、「死に対する恐怖」「死後の生活への信念」「生を全うさせる意思」「人生に対して死が持つ意味」「身体と精神の死」の項目で構成されています。研究結果で面白かったのが、この5項目同士の関連が強くなかったこと。死生観って本当に人それぞれなんだなと。
哲学的アプローチ
考察を書く際に参考になるかもと思い、今書店でよく平積みにされている 「DEATH「死」とは何か」シェリー・ケーガン著 も読んでみました。
「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版www.amazon.co.jp
2,035円(2020月03月11日 12:33 詳しくはこちら)
宗教観を入れずに「魂は存在しない」「不死は良いものではない」という見地から生死の本質を問う哲学書で、その解釈は読者一人ひとりに委ねられます。「いろんな角度から死を論じたけど、あなたはどう考えますか?」と迫ってくる感じ。
「悪いものから良いものへ」という物語が、私たちが自分の人生に望む物語であり、「良いものから悪いものへ」という物語は、自分の人生には望まない物語なのだ。
という著者の言葉が印象に残りました。死は良いものでも悪いものでもなく万人の必然。やがて訪れる死までは、やれる限りの生を営んでいこう、くらいに思えると、人生幸せなのかもしれませんね。
安楽死という選択
ちょっと切り口を変えて、以前、僧侶でもある大学院の特任教授の授業の感想をコラムにしましたが、安楽死をめぐる議論は国内でも熱を帯びてきています。
https://note.com/embed/notes/n86c0a24c5c9f
尊厳死という言葉もよく耳にしますが、その違いに明確な定義はなく、一般論に近いこちらの解説に基づくと、安楽死を「積極的安楽死(致死量の薬物を医師が投与する又は患者自身が行う)と「消極的安楽死(延命措置をやめる」に分けたとき、消極的安楽死を指して尊厳死と呼ぶようです。ちなみに現在の日本では積極的安楽死は違法です。
医療技術の進歩により延命期間が長くなる一方で、耐えがたい痛みや苦しみから解放されたいと望む人が増加しています。
安楽死については賛成派と反対派が完全融和することはないと思います。個人の思想の中ですら是非が入り混じるし、一般論と我が事で考えた時に普通に別の解が出たりしますしね。私見としては、安楽死できる条件を設けて、個人が選択できる環境にしておく。選択肢があることで、生きづらさが和らぐ人は少なくありません。
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死生観は、自分なりの見解を持つことが大切だけど、他者に押し付けてはいけないものです。親睦の席でタブーな会話のテーマ、昔は「野球/政治/宗教」だったけど、今後は「死生観/政治/宗教」になると思いますよ、いや真面目に笑。
逃げずに避けずに考えることから始めたい。死を人生に位置付けることは、中年期から老年期にかけての重要な心理発達課題であり、高齢期のQOLやサクセスフル・エイジングの観点からも重要であることは間違いないのです。