どんな文脈だったのかは忘れたが、ゼミ中に教授の口からもれた「待つことも(心理の)仕事のうちだからね」という言葉が胸に残っている。感じた芳潤さは長きに渡る臨床現場での経験から醸されたものだったのだろう。
「待つ」を辞書で引くと、①物事・人・時が来るのを予期し、願い望みながら、それまでの時間を過ごす。また、用意して備える。②しようとする動作を途中でやめる。③相手の反応や態度がわかるまで静観する。と記されている。
日常生活における動作としての「待つ」とはこの通りであろう。しかし、臨床における「待つ」には、もう少しの含蓄が加味される。
臨床哲学者 鷲田清一は、著書『「待つ」ということ』のなかで、「待つことは、希望を棄てたあとの希望の最後のかけらである。」と提言する。またその特徴として、「待つことには、偶然の(想定外の)働きに期待することが含まれている。それを先に囲い込んではならない。いかに開きっぱなしにしておけるか。放棄や放置とは違う務めが要る。受け身ではない。」と述べている。
心理面接では、クライエントが抱える心理的困難に対して、心理的手法を用いて支援を行なっていく。問題を打開していくのはクライエントである。セラピストは脇役として寄り添いながらその時を待つ。でも、その時はいつくるのか、さらに言えば本当にくるかは、全くわからない。それでも待つことが要求される。
せっかちなセラピストに当たったクライエントは不幸である。
鷲田は同書にて「せっかち」をこう説く。「せっかちは、息せききって現在を駆けり、未来に向けて深い前傾姿勢をとっているようにみえて、じつは未来を視野に入れていない。待つというより迎えにゆくのだが、迎えようとしているのは、ちょっと前に決めたことの結末である。決めたときに視野になかったものは、最後まで視野に入らない。頑なであり、不寛容でもある。」
せっかちなセラピストは固くて狭くて浅い。自分自身が予定不調和を受け入れられないで、どうしてクライエントを待つことができようか。
幸いなことに現場には、待つことの訓練場面が多々ある。
例えば、突然に新患の検査依頼が舞い込んでくることがある。今から取れますか?みたいな。先約が入っている以外であれば基本的に受ける。すなわち、勤務中は常に待っている必要がある。この数か月間で不測を待ち続ける緊張の糸の張り方を鍛えられた。緩いと瞬時にフル回転ができず、張りすぎると後半にバテる。ほどよい塩梅は現場での試行錯誤の中で調和されていく。
例えば、クライエントが遅刻して来院することがある。みなさんは待ち合わせ相手が約束の時間に現れなかったらどうなるだろうか。感情(怒り、不安)や行動(電話する、叱責する)が色々出るだろう。心理面接の場面でセラピストがまず行うこと、それはクライエントが遅刻した、または遅刻せざるを得なかった背景に思考を巡らせ、待つことだ。セラピスト自身に沸き起こっている感情や何やらも全て抱えて、待つ。そのうえで、しかるべき行動に移していく。
待つとはすなわち臨床である。複雑であり、難解であり、深い。セラピストには自分自身の熟成を能動的に待つことが課せられている。
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