35歳のとき、私は「産業カウンセラー養成講座」に通っていた。傾聴をテーマに、受講者同士で何度もロールプレイを繰り返した。面接を録音し、それを逐語に起こし、講師と受講者全員で検討会をする。今思えば、なかなかに骨の折れる訓練だった。
その中で、今でも鮮明に覚えているフィードバックがある。講師は私にこう言った。「あなたは、話を聴けている“ようで”、聴けていないわね」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。自分では、相談者の話を遮らず、相槌を打ち、丁寧にオウム返ししているつもりだったからだ。
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カウンセリングにおける「聴く」は、日常会話とは決定的に違う。カウンセラーは、姿勢と技法の両方を用いて話を聴く。姿勢とは、C・ロジャーズが示した三条件「無条件の肯定的関心」「共感的理解」「自己一致(純粋性)」に集約される。「人間はよりよき生に向かって歩む主体的存在である」という人間観が前提にある。
一方、技法は数多い。非言語では、相手のテンポや呼吸に合わせるチューニング、さりげなく動きを合わせるミラーリングなど。言語では、労いや承認を伝えるコンプリメント、話を整理する要約、そして相手の言葉を映し返すリフレクションなど。リフレクションには段階がある。言葉をそのまま返すオウム返し、出来事に焦点を当てた事柄のリフレクション、そして感情のリフレクション。
講師が私に指摘したのは、まさにそこだった。私は、相手の感情にほとんど触れていなかった。発言の裏にある気持ちに思いを巡らせていなかったのだ。「傾聴って、オウム返しをすればいいんでしょ」そんな表層的な理解しか、当時の私は持っていなかった。しかも、そのオウム返しすら怪しかった。「上司が」と相手が言っているのに、「会社の上長が」と言い換えて返す。自分の準拠枠を通した言葉で返すから、「そうじゃなくて」と修正される始末。確かに、私は聴けていなかった。
傾聴は、技法だけでは成り立たない。大学院の講義で人間性心理学の大家が「『はあはあ兄ちゃん、ふんふん姉ちゃん』にならないように」と言っていた。まず人間観や姿勢があり、その上に技法が乗る。順番を間違えると、カウンセリングはたちまち空回りする。策士、策に溺れてはいけない。人を見失ってはいけないのだ。
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49歳になった今、当時より人の話を聴けるようになっただろうか。正直、胸を張って「はい」とは言えない。それでも、聴けていなかった自分を知っている分だけ、「聴こうとし続ける姿勢」は持てている。傾聴は、到達点ではなく、研鑽のプロセスそのものなのだと思う。
今日もまた、私は人の話を聴いている。