私の祖父は、第二次世界大戦の経験者だった。フィリピン戦線に派遣され、南方の密林で過酷な日々を送ったという。幼少期の私は興味津々に当時の話を聞きたがったが、大抵、祖父は多くを語らなかった。そこには戦争を経験した世代に共通する、悲痛な沈黙があったように思う。
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祖母から聞いた、祖父の晩年エピソードが、今も忘れられない。認知症を発症し、中〜重度に進行した頃、施設先で夜な夜な徘徊し、「一番!……二番!……」と大声で点呼を取っていたらしい。スタッフさんが止めに入っても、祖父はまるで目の前に戦友たちがいるかのように、声を上げ続けていたそうだ。
どうやらフィリピン戦線では、点呼が頻繁に行われていたらしい。刻々と誰かが命を落とすような惨状の中で、今、何人が生き残っているのかを確認することが日常だったのだ。
とある夏の帰省時、小学生だった私が好奇心から尋ねると、祖父は珍しく戦争の話をしてくれた。救急部隊に配属され、いわゆる後方部隊だったこと。戦闘中に敵のライフル弾を左肩に受けて負傷したが、そのことで前線を離れ、結果的に命が助かったこと。祖父は弾が貫通した銃痕を指でさすりながら、穏やかな口調で語ってくれた。帰国後、祖父は警察官になった。祖父母家の引き出しに手錠と警棒がしまわれていた光景とともに、その日の記憶が今でもはっきり残っている。
認知症が進行した祖父は、時間の感覚を失い、記憶の境界が曖昧になっていた。おそらく祖父の中では、戦争が再び「いま・ここ」で起きていたのだろう。過去の出来事が現在化する。それは認知症に特徴的な現象であると同時に、こころの深部に刻まれた体験が、いかに強く残り続けるかを物語っているように思う。
心理学の視点から見ると、祖父の点呼行動には、トラウマ記憶の再体験という側面があったのかもしれない。戦争体験は人間の生存本能に直結する、極めて強烈なストレス体験である。恐怖や死への緊張が極限まで高まった状況で刻まれた記憶は、時間が経っても消えにくい。晩年、脳の老化によって抑制機能が弱まると、かつて封じ込められていた記憶が解放され、当時の臨場が甦ることがある。
アメリカでは、ベトナム戦争の帰還兵たちの間で、原因不明の精神的衰弱が多発した。社会復帰ができない、悪夢にうなされる、突然フラッシュバックを起こすなどの症状が共通していた。心理学者や精神科医たちの調査を経て、1980年に「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」という概念がDSM-Ⅲにて定義される。それは、戦争という極限体験がもたらす「見えない傷」を、社会が初めて正面から認めた瞬間だった。その後、PTSDは戦争に限らず、災害や犯罪被害など、命の危険を感じる体験の後にも生じうることが確認されている。発症原因を、個人の弱さではなく、こころの反応として理解しようとしたこの動きは、心理学と精神医学のあり方を大きく変えた。
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臨床心理士として働く中で私が強く感じるのは、こころの傷は見えにくいが、確かに存在するということだ。トラウマは本人の意志だけで消せるものではない。だからこそ、安全な場所で語られ、理解されることが重要になる。私は祖父の点呼行動は、一種の「語り」だったのだと思う。言葉にならなくても祖父のこころの中では、あの夜の恐怖や、仲間への想いが、再び息をしていたのだと思う。
戦争が人に落とす影は、深く、長い。身体の傷が癒えても、こころの傷は世代を超えて受け継がれることがある。私たちはそれを心理学というレンズを通して見つめ、二度と同じ傷を生まない努力を続けなければならない。
戦争は人類が起こす最悪の行為である。