自分は人のこころが読めると豪語する人がいたら、じゃあ今わたしのこころを読んでみてくださいと尋ねてみましょう。こころは読めません。
行動主義と認知行動療法
不可視なこころではなく、こころの機微に付随して現れる可視的な要素、つまり顔の表情や言動などから判断するのはどうかと提言したのが行動主義です。
この考え方を起源とし臨床で発展してきたのが認知行動療法です。ここでは「環境」と「個人」の相互作用によってこころの問題が生じるという前提に立ちます。こころを認知・行動・気分・身体の側面で捉えるのが特徴です。認知行動療法では自分でコントロールをしやすい「認知」や「行動」にアプローチして、「気分」や「身体」症状の緩和を目指します。
行動に着目する
人がとる行動は、様々な示唆を孕んでいてとても興味深いです。
これは臨床のトレーニングにもなるなと、私が通勤時にしている楽しみは、歩行人の足向きを見ながら歩くこと。下ばかり見ていると危ないので、全体視野で見てますけどね。顔じゃなくて足向きをみていれば、人がどちらの方向へどのくらいの速度で動こうとしているのかがよくわかります。人が織りなす全体力動の流れを掴んで歩くと、混雑時でも衝突することなく一定の距離を保って前に進むことができます。サッカーのフェイントにも活きてくるので、私的には一石二鳥の行いとなっています。
「歩きスマホはそもそも危険行為だし、心理士なら人の力動を見ながら歩いた方が楽しいですよ」と、大学院の先輩が講演で話されていたことを思い出しました。
https://note.com/embed/notes/n7ba2fc6f7ff9
足早な人、姿勢の良い人、傍若無人な歩き方、優柔不断な歩き方と、様々みえてきます。スマホ見ながら歩いている人は、人生を1/3くらい損しています。衝突リスク負い、人を見る面白さを捨ててまでチェックしなければならない情報なんてそうそうないですよ。
行動に偏らないことも大切
行動に偏りすぎると、読唇術推論の罠に嵌りこんでしまいます。今表情が曇ったから嫌だと感じたのだろうとか、語気が強くなったから怒っているのだろうとか、それはあなたの判断であって、当の本人はそうではないかもしれないのです。他者が考えていることを確認もせずに、自分はわかっていると思い込むことは、時に自分のこころを追い込んで傷つけます。
可視的な認知や行動から不可視なこころを捉える試みは、ひとつの有用なやり方ではあります。こころを直接的に意識/無意識の側面から扱うフロイトやユングにも一理あるので、現代ではどちらにも偏りすぎずに折衷という解釈でいいよねという流れになっています。私もそれが自然だと思っています。
可視的な要素は不可視なこころを理解する補助にはなります。でも目に見える部分だけで判断するのは無理があります。見えないものは見えない、これが真理だし、だからこそ皆が探求したがるんでしょうね。