「自己愛の人」「未熟さ」「他者を操作する」。カルテにこんな言葉を目にする機会が増えている。自己愛とは何なのか、自分なりに改めて考えてみようと思う。
「自己愛」とは、辞書的には「自分自身を愛すること」である。心理学では「自分自身への独りよがりな陶酔、ナルシシズム」の意味で用いられる。自分のことばかり気にする人、他者評価を過剰に気にする人、自分の非を認めない人、言い訳ばかりする人は、臨床場面ではしばしば自己愛で解釈される。その言動の底には「劣等感」「他者に傷つけられたくない」「認めてほしい」という心理があると。
自己愛は人が生きていく上で必要な要素である。社会心理学者コフートは「自分は特別だとか、人より優れていると思いたい心理を満たしてやることが重要である。自己愛を満たしたい欲求が、人間の本質的な欲求である。」と説いている。ある意味ではその通りだと思う。ただし、極端に振り切れると、弊害をもたらす懸念もでてくるものである。
例えば、自己愛性パーソナリティ障害。言うなればプライドが高すぎる自信家、自己意識が肥大化しすぎる障害である。彼らの思考は「自分は特別なので、賞賛され、特別な扱いを受けねばならない」「他者は自分を称賛するか、自分の目的のために利用するもの」である。自己愛性パーソナリティ障害やその傾向を持つ人は、現代社会では非常に多くなってきており、ある調査では人口の約6%ともいわれている。こうした傾向をもっていながら、社会生活や職業生活に適応している場合も多くみられ、職業的には実業家や政治家・医師・弁護士などに多いと言われる。自覚し、柔軟さを身につけれるようになれば、生きづらさは緩和する。
自己愛といえば「アドラー心理学」である。2013年出版「嫌われる勇気」のムーブメントは記憶に新しい。
私はアドラー心理学に懐疑心をもっている。気持ち悪さの要因は主に、原因論ではなく目的論に依るところにある。同じような理由で、「ソリューション・フォーカスト・アプローチ」「ポジティブ心理学」も敬遠している。書籍を読んでもなかなか腑に落ちない。原因があってこそ目的があるのではないか、原因→問題→解決の手順をとっぱらっていいのだろうか、ネガティブを180度ポジティブにもっていくことは無理が過ぎるのではないか。これらの批判も込みで自分の中に消化していけばいいのだが、その域まで達していないのが私の未熟さである。
自己愛の呪縛という困難を抱える方々のために、私は私ができる支援の幅を広げていきたい。その一手として、今まで避けていたアドラーを紐解いてみた。図書館へ行くと「嫌われる勇気」は貸出中だった。未だ人気があるらしい。別の書籍に目を通すと、もっともな考えが沢山書かれていた。一方で、認知行動療法的なアプローチの方がすっきりする自分も再確認している。清濁合わせ飲んだり矛盾を統合していく過程では痛みや苦しみを伴う。自己愛に柔軟さを生む作業も、これに似ているのかもしれない。
「アドラー心理学 よりよく生きるための大人の教科書」星一郎著
●どこから(過去)?ではなく、どこへ(未来)?を重視する。原因論ではなく目的論で考える
●よりよく生きるために「正しい目的」に向かうことを支援する
●劣等感はマイナスにもなるが、プラスに働けば向上心のバネになる
●共同体感覚は、誰かの役に立ちたい、人を喜ばせたいという人間の自然な欲求である
●失敗か成功か、幸福か不幸かを決めるのは、本人の認識の仕方による
アドラー心理学では、人生のあらゆる問題は、対人関係によってもたらされるとしています。対人関係には3つのタイプがあり、友達の関係を望ましいものとしています。
●師匠と弟子の関係
師匠が絶対的な権力を持ち支配する。弟子は人格、考え方において全面的に師匠に降伏する。
●教師と生徒の関係
知識など、部分的に教師が上の立場となって、生徒はそれを教わる。考え方や人格までは支配されない。
●友達の関係
縦関係ではなく、ネットワークのように広がる横の関係。上が一方的に指導や支配をしたり、下の者が自分の何かを捨てたりすることはない。
勇気づけの反対言葉、勇気くじき。
時に「頑張ってね」「やればもっとできるよ」はやる気を失わせ、何かに対して立ち向かう行動力を奪います。ただ事実を認める言葉を使うことです。「頑張ってるね」「やれば更にできるようになるよ」。これが承認欲求を満たす勇気づけになります。
幼少期にネグレクトなどで無視されることを経験すると、代償行為として「主導権争い」をすることがあります。親が自分を認めないなら、自分も親を認めまいと何にでも反対します。この時の対応としては、引き分けることです。人間関係は勝ち負けではない、どうやったらお互いがいい状態になるか考えて譲り合えるのか、を提案します。