一旦コラムを書き上げてみて、なんだか味気なかったので、ChatGPTに村上春樹テイストに変換してもらったら、とてもよくなりました。アイデンティティというふわりとしたテーマとの相性が抜群で、むしろこれくらい抽象的な事例を出した方がわかりいいことに気がつきました。


社会人2年目のある日、あなたはふとした瞬間に「このままここにいていいのだろうか」と思うことがある。電車の窓に映った自分の顔を見たときかもしれないし、コンビニで温めてもらった弁当を受け取るときかもしれない。その問いは、どこからともなく忍び寄り、気づけばあなたの肩に静かに手を置いている。

心理学者エリクソンは、こうした揺らぎを「アイデンティティの課題」と呼んだ。人間は一生を通じていくつかの発達段階を歩み、そのたびごとに違う課題に取り組むという。青年期から大人への入り口に立つ僕たちに与えられたのは、「自分は誰なのか」という、なんとも答えの見えにくい問いだ。

学生時代、僕らは複数の役割を自由に行き来していた。サークルでは気の利く先輩で、バイト先では笑顔の店員で、友人の前では冗談ばかり言う自分。そこにはまだ余白があった。「決めなくてもいい」という自由があった。でも社会に出ると、肩書きや組織が、ひとつの輪郭を急に僕らに与える。ときにそれは窮屈に感じられる。だからこそ「これでいいのか」と自問する。

エリクソンは言う。迷いは欠陥ではなく、むしろ通過儀礼のようなものだと。模索すること、試しに歩いてみること、間違えること。そうやって少しずつ自分のかたちが浮かび上がるのだと。

24歳で「これが僕の答えだ」と確信できる人間は少ない。むしろそんな人間がいたら、どこかで何かを見落としているのかもしれない。重要なのは、問いを避けないことだ。日記に書いてみてもいいし、信頼できる友人と夜更けに語り合ってみてもいい。今の時代ならカウンセリングサービスのほうが気楽に相談できるかもしれない。あるいは、誰かにうまく話せなくても、心の中でその問いを持ち続けるだけでもいい。

人との関わりもまた、この課題に影を落とす。上司や同僚、同期、恋人。彼らの瞳に、自分という輪郭が映っている。人にどう見られるかを通して、僕らは逆に「自分はどうありたいのか」を探っていく。

たぶんアイデンティティというものは、完成品として手に入るのではなく、旅の途中で拾い集める石ころみたいなものだろう。ポケットに入れて持ち歩くうちに、手触りが少しずつ馴染んでくる。気づけばそれが「自分らしさ」になっている。

だから焦らなくていい。迷うことそのものが、あなたを形づくる時間なのだ。社会人2年目に訪れるこの揺らぎは、未来をつくるための静かな前奏曲のようなものだと、僕は思う。


cocoro no cacari|大塚紀廣

1976年千葉県生まれ。大学卒業後、第二新卒で(株)リクルートに入社、国内旅行情報じゃらんを担当した。その後同グループであった(株)ゆこゆこへ籍を移し、人事部で人材採用、社員研修の企画運営、ストレスチェック実行者等を担当した。40歳で退社し、臨床心理学大学院へ進学。修了後は東京大学医学部付属病院老年病科、都内のメンタルクリニック等で心理士業務に就き、現在に至る。専門は高齢者臨床と産業心理。趣味はロードバイク、サッカー、ジェフ千葉、漫画、温泉など。