今日は、少し情けないけれど、私にとって大事な失敗話を書こうと思います。そこにはレジリエンス、つまり折れたあとにどう立ち上がるかのヒントがあった気がします。
今春より医療開発に関わるお仕事で、心理検査を担当していました。この検査は、これまで大学病院や街の心療内科で300回以上行ってきたもの。「慣れてるし、安心して任せてもらえるだろう」と思っていました。
けれど、数回の実施後、依頼者から指摘が入ります。「あなたのやり方では、正確なデータがとれません」と。
最初に湧いた感情は、“否認”でした。「そんなはずない。何百回もやってきたのに」。まさに、心理学で言う“悲嘆のプロセス”そのまま。頭では理解していても、こころが受け入れを拒んでいたのです。

臨床と治験は、どちらも同じ検査を行いますが、目的やスタンスが違います。端的に語弊を恐れずに言えば、臨床は「目の前の人のために、柔軟に、信頼関係を重ねて行うもの」であり、治験は「正確なデータのために、中立性と厳密性を貫くもの」です。
どちらも人を尊重して行う点では同じ。けれど、立ち位置はまるで違う。
私はその違いを理解していながらも、こころのどこかが受け入れられませんでした。被験者さんが易怒的になったとき、私はそれを無視して検査を進めるよりも、「この人がどう感じているのか」を受け止めたくなってしまった。それが、治験という場のルールとは噛み合わなかったのです。
なぜ適応できなかったのか。今になって思うと、いくつかの要因があります。
- 臨床心理士になりたての頃に学んだ「人を支えるスタンス」への強い共感(刷り込み)
- その姿勢で積み重ねてきた成功体験(バイアスの形成)
- 生まれ持った性格傾向
きっと、このあたりが自分の修正できなかった癖として表れたのでしょう。
注意を受けながら、何とか応えようと努力しました。けれど、結果としては「完全には適応できない」と判断され、契約解除に至りました。正直、ショックでした。実質的にはクビですから。
これまでにも、会社員時代にプロジェクトを外されたり、取引先から担当を替えられたりと、似た経験はありましたが、やはり何度でも堪えるものです。
では、どう立ち直ったか。
まずしたのは、「バランス思考」です。
「適応できなかったのだから仕方がない」
「自分が依頼主でも、きっと同じ判断をしただろう」
そんなふうに、出来事を客観的に眺める。
これだけでも、少しだけ心の痛みが和らぎます。
次に、自分の「自己効力感」を取り戻すこと。
過去の成功体験を振り返ったり、自分を理解してくれる人たちと話したり。
“捨てる神あれば拾う神あり”という言葉を、何度も噛みしめました。
それでも、しこりは完全には消えません。
でも、今はそのしこりを“汚点”ではなく“訓示”として受け止めています。
「こういうことも起こる。だから、次はどうするかを考えよう」と。
今回の失敗から、学んだことをいくつか。
- 自分らしくない仕事を続けても、どこかで軋みが出る
- コミットできないなら、自分から手を挙げて降りる勇気も必要
- 臨床的には間違っていなかった。ただ、依頼主の求めるものとは違っていた
反省すべき点はもちろんあります。ご迷惑をおかけしたことは、本当に申し訳なく思っています。でも同時に、すべての責任が自分だけにあるわけでもない。原因帰属のバランスをとることも、レジリエンスの一部なのだと思います。

長い文章をここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この失敗談が、みなさんの「立ち直り方」や「自分らしさの保ち方」を考えるきっかけになれば、私のこの経験も、少しは報われる気がします。
そしてもし、あなたが今、何かにうまく適応できずに苦しんでいるなら――
焦らなくて大丈夫です。
誰にでも、「変えたくない自分」とぶつかる瞬間があります。
そのとき、あなたはどんなふうに、自分を受け止めますか?