同窓会に出席したことがない。なんとなく、気恥ずかしいのだ。
とはいえ、「久しぶり〜」と笑顔で話したい気持ちも、ないわけではない。実際、同窓会ではなくても顔を合わせる機会はある。けれど、根底にはどうしても拒否感がある。彼らに非があるわけではない。
私にとって彼らに会うということは、10代の未熟で軽薄だった自分と再会することにほかならず、それがたまらなく恥ずかしいのだ。
エリクソンに倣えば、これはアイデンティティの課題であり、ピアジェの認知発達理論の視点から言えば、理想自己と現実自己の乖離がもたらす自己嫌悪といえる。成人、社会人、自立。そんな未踏の領域から押し寄せる社会的プレッシャーの中で、当時の私は自己受容など到底できなかった。回避し、逃げ、拒み、ときに八つ当たりする。幼稚に駄々をこねていた。
そんな自分を、それでも受け入れてくれた人たちがいた。あの時期、彼らの存在はかけがえのない救いだった。多くの時間を共に過ごした部活仲間、趣味や感覚が合った級友。彼らには、私の表面だけでなく内側を見たうえで関わってくれたという安心感がある。今でも構えることなく会えるのはそのためだろう。
あれから年月を重ね、多少なりとも人としての成熟度は増した。スポットライト効果という言葉を知り、人は自分が思うほど他人を気にしていないことにも気づいている。そう思えば、あの頃ほとんど友人と呼べなかった同窓たちと、30年の時を経て再び会ってみるのも、悪くないのかもしれない。