尿路結石による死に通じる痛みを経験した今、平穏無事に生きられていることへの感謝の念が絶えない。こういう元気な時にこそ「死」について考えておきたい。不健康な状態ではどうしてもネガティブに陥るので。自分の今の死生観を持てていると、突然の災害や訃報ニュースにも、変な感じに巻き込まれない。
「死」のイメージ
私の思春期までの「死」は、畏怖の対象だった。
何が怖かったのだろうと思い返した時、それは物理的な痛みと、精神的な、つまり概念とか物として掴めないという意味での得体の知れなさ、確実に我が身に訪れることだけは決まっているのに、いつくるのか、今来るかもしれないという予期不安だったかのように思う。
みんなはどうなんだろうとAIに聞いてみたところ、同じような回答だった。
- 未知への恐怖: 死後の世界や死後の状態が未知であることから、不安や恐怖を感じることがあります。死後の存在や何が待っているのかに対する不確実性が怖いと感じることがあります。
- 終わりの概念への抵抗: 生命の終わりを意味する死という概念に対する抵抗や拒絶が、死が怖いと感じる理由の一つです。多くの人が、自らや愛する人が存在しなくなることへの恐怖を抱くことがあります。
- 失われることへの恐怖: 死が怖いと感じる理由の一つに、自らや大切な人が存在しなくなることによって失われることへの恐怖があります。これは、人間関係や絆の終わりや、未来の可能性や目標が失われることへの恐怖と関連しています。
- 苦痛や病気への恐怖: 死が近づくことで苦痛や病気が伴う場合、その苦しみや痛みへの恐怖が死が怖いと感じる理由になります。
これらの要因が、人々が死を怖いと感じる理由に影響を与えることがあります。死に対する恐怖や不安は、人間の本能的な反応や精神的な過程に根ざしているため、各々が自分自身や周囲の人々と向き合いながら、受容していく必要があります。
得体の知れない物は怖い。人間だけでなく生物はみな本能でそう感じるものである。因数分解や向き合うことで、可視化してみる。見えるようになる(見えたと思える)ことで、得体の知れなさ感はだいぶ変わるだろう。
生きる
「死」だけではなく、「生」についても考えておきたい。
今わたしが考えているのは、生は死の反対ではなく並列であろうということ。生物は死ぬまでは生きているので、生を与えられている時間は、生を愉しむことが楽だし得なのではないか。あまり考えすぎずに今という時間を生きていく。
私は今日現在47歳まで生きてきた。生きたくても生きられなかった人がいるという事実。病気、事故、災害、戦争…。その人の分まで…なんて綺麗事を言うつもりはなく、ただそういう人がいたということ。少なくとも私は、生きてるうちは精一杯生きてやろう、と思っている。
https://note.com/embed/notes/n52f8611e61cb
自死について
心理屋という仕事をしていると、希死念慮や自殺企図との遭遇がたくさんある。いつも感じるのは、死の訴えの裏には、強烈な生への渇望がある、ということ。
「『じゃあ、死んだらいいじゃないですか』と医療従事者に言われてショックだった」と語った方がいらしたが、傾聴とか受容とは、語られる言葉を額面そのままでなく奥行きまで取扱うことが本質で、勘違い理解のもとで易きに流れている対人支援者はご退出願いたいと思う。死人を増やしてしまう。
私は思春期に十代特有の希死念慮を抱えたことがあり、その時は「完全自殺マニュアル」書籍に救われた。自殺の仕方が科学的に書かれており、この通りにやれば死ねる、死ぬのは意外と簡単、マジで無理な時はこれをやればいい、だから今はやれるだけやって生きてみよう、となった。間話にあった漫画のコラムが衝撃で「死んでもいいんだよ」という内容だった。死んではいけないと固定していると余計に死にたくなるというジレンマ。ツンデレじゃないけど、甘辛両味のほうが、意外とバランスよく生きていけるのではないかと思う。
生き地獄からの救済としして自死を訴える人には「そうだね」と言ってあげたいし、それでも「生きていてもらいたい」という気持ちがあり、こうした二律背反の精神不均衡のなかで、私は人に対峙していく。
癌がいい
コラムの流れ的に蛇足だが、私は自分が病死するなら癌でありたいと思っている。ちなみに日本人の病死因で多いのは、癌、心筋梗塞、老衰、脳梗塞であるらしい。
癌のいいところは死ぬ直前まで、わりと動ける(思考活動含めて)ところにある。脳卒中や心筋梗塞、認知症などではこれができない。一方で、部位や状態によっては痛みが出ることが懸念されるが、その時期まで来たらモルヒネなどガシガシ使って緩和ケアで逝けたらいい。
人生なんて思い通りにいかない。けど想い描かなければ進まないこともある。ある程度考えて、あとはケセラセラ。そんな生き方でありたいと願う。
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