「働く」ってなんだろう。働く……「労働」と変換してもいいだろうか。労働を辞書で引くと「からだを使って働くこと。特に、収入を得る目的で、からだや知能を使って働くこと」と定義されている。

「あなたにとって働くとは?」と尋ねると、実に多くのクライエントが「お金を稼ぐ手段、生活しなきゃならないんで」と答える。お金を稼ぐだけが目的ならば、利子・配当・家賃などの不労所得(頭を使う行為は労働なので、不労という表現は適切ではないと思ってる)でもいいということなんだろうが、個人的にはなんか味気なく感じてしまう。

私にとっての働くとは「自己成長の手段、誰かの役に立つこと」かなと思う。当然お金は大事。ないがしろにするつもりはなく、質素でも生活できるお金を稼げる前提で、お金以外の意義を労働に求めたいと考えてしまう。贅沢なのかな。

欲求階層理論に似ているかもしれない。お金は生理的欲求や安全欲求の階層であり、満たされると高次の欲求、つまり自己成長とか他者貢献・社会貢献みたいのがでてくる感じ。どうだろうか。

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私がこんな考え方になったのは、転職してリクルートで働いてしまったせいである。

大学を卒業して初めて勤めた会社では、私にとって働くとは御多分に洩れず「お金を稼ぐ手段」だった。「お金をもらってるんだから、辛くても我慢して働く」毎日そう思っていた。それ以外の選択肢は見えなかった。やがて一年半で心身を崩した。この信念だけでは学生から社会人への転換が上手くできなかったのだ。

退社し実家に拠点を戻したのち、第二新卒としてリクルートに入社した。ここで働くことの意義が一変した。営業目標はハードル高め、勤務時間も平均11時間くらい(今だったら確実にマズイ、これでも私は早く帰っていたクチ)で環境は前社よりも過酷だったはずなのに、働く事が愉しかった。

ここは人材の宝庫だった。周囲の社員全員が聡明でいい人だった。入社一週間で「ああ、俺が底辺なんだな」と素直に認められる完敗の状態だった。それがよかった、開き直れたのだ、じゃあ俺は上がるだけだなと。みんなの良いところを盗んで自分を鍛える事だけに集中した。上司や同僚はその成果を褒め称えてくれた。できることは増え、自信を持つ事ができ、取引先にもエンドユーザーに対しても、自分が何かしら貢献できていることを実感することができた。

リクルートでの仕事が特別に愉しい仕事だったかといえばそうでもない。どこの会社でも仕事は仕事、大差はない。3社転職した私が言うので、大きい間違いはないはずだ。では何が違ったのか。「この世に愉しい仕事なんて存在しない。愉しもうとする人間とそうしない人間がいるだけだ」リクルートの人事社員が語ったこの言葉に全てが詰まっている気がする。愉しもうとする人が集まったから、自分にはこの朱に交われば赤くなる素質があったから、ここでの仕事は愉しかったのだ。自分の気概や姿勢も大事だけど、環境も大事だなと思う。

なんとなく働いていると行き詰まることがある。お金だろうが何だろうが、自分は労働に何を求めているのかを明文化する事は大切だと思う。自分にとって、はたらくってなんだろう。行き詰まった時は原点に戻る。そうすることで次のアクションが見えてくる。


cocoro no cacari|大塚紀廣

1976年千葉県生まれ。大学卒業後、第二新卒で(株)リクルートに入社、国内旅行情報じゃらんを担当した。その後同グループであった(株)ゆこゆこへ籍を移し、人事部で人材採用、社員研修の企画運営、ストレスチェック実行者等を担当した。40歳で退社し、臨床心理学大学院へ進学。修了後は東京大学医学部付属病院老年病科、都内のメンタルクリニック等で心理士業務に就き、現在に至る。専門は高齢者臨床と産業心理。趣味はロードバイク、サッカー、ジェフ千葉、漫画、温泉など。