心理士として、私は十代が苦手だ。学校でいえば小中高生。嫌いではないのだが、苦手なのだ。

そう、薄々は感じていた。院生時代からWISCや田中ビネーはしっくりこなかったし、遊戯療法や箱庭を避けていたし、職もスクールカウンセラーは敬遠していた。老若男女が訪れる全包囲型のクリニックでこの世代のクライエントを実際に担当させてもらったことで、苦手は確定診断されたのだ。

何がこんなに苦手と感じさせるのだろう。それは十代特有の素直で堅い心的構造と、自分自身の思春期の実体験だと思われる。

構造論の観点

フロイトは人のこころを、イド・超自我・自我の構造で説明しようとした。

イド:リビドーが備蓄されている。快楽原則に基づいて活動する。
超自我:親や社会によって形成された価値観。道徳原則に基づきイドを検閲する。
自我:イド・超自我、外界からの要求に対し、現実原則に従って調節する。

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十代は自我機能の発揮範囲が狭い。当然だ、彼らの外界なんて家庭や学校しかないわけで、そこで培った現実原則はバリエーションに乏しい。多くの子らはアイデンティティも確立しておらず、精神的に未熟で揺れ幅が大きい不安定な状態にいる。十代は徐々に自我を鍛えていく世代なのである。

色々経験してきた大人の自我には、分別が芽生えてくる。例えば理不尽はどこまでいっても理不尽であり、解消できないことに執着しても費用対効果が悪いことに気が付いている。分別とは即ちあきらめである。現実的に生きていくためには時にあきらめも必要だ。青春群像劇でみかける「お前もつまらない大人になったな」という台詞は、こういうことなのだと思う。永遠のセブンティーンで居続ける強さを、多くの大人は持っていない。

十代は実直だ。強くて脆い。こちらからの呼びかけに応じない硬さがある。その硬さは鋼でもガラスでもない、プラスティックのようなスコーンとした重質感。軽く扱えばコロンと手から転げる危うさがある。大人の正論では歯が立たない。弾き返される。彼らが自身で自分を扱えるようになるまで、心理士は転落防止柵のような役割を担うことになる。辛抱強くないと務まらない。

逆転移の観点

もうひとつの理由。かくいう私も高校生時分は、若きウェイテルの悩みよろしく闇を抱えていた。子どもたちが困難を抱える感じはよくわかる。……この「よくわかる」感覚が疫病神なのだと思う。私が抱えた悩みは私特有の唯一無二なものであり、子どもたちの悩みはまた全くの別物である。自身の経験が強烈だったからこそ、他者の思春期の悩みに寄り添いづらいのではないだろうか。

これは多分、逆転移。今日はつくづくフロイトだ。私は自分の体験をクライエントに投影しているのかもしれない。(ちなみに私の思春期の闇は以下のコラムで。)

https://note.com/embed/notes/nd9ab2719afc1

人は人でしかなく、スーパーマンにはなれない。得意と不得意、好き嫌いがある。完璧にはなれないのだ。私の心理キャリアは今後も子どもを避けると思う。仕方がないし、それでいいと思っている。ただ、その苦手な理由とそこから逃げないことは、自戒し続けようと考えている。


cocoro no cacari|大塚紀廣

1976年千葉県生まれ。大学卒業後、第二新卒で(株)リクルートに入社、国内旅行情報じゃらんを担当した。その後同グループであった(株)ゆこゆこへ籍を移し、人事部で人材採用、社員研修の企画運営、ストレスチェック実行者等を担当した。40歳で退社し、臨床心理学大学院へ進学。修了後は東京大学医学部付属病院老年病科、都内のメンタルクリニック等で心理士業務に就き、現在に至る。専門は高齢者臨床と産業心理。趣味はロードバイク、サッカー、ジェフ千葉、漫画、温泉など。