電車を待つ地下鉄のホーム。目の前にCHINTAI×ローランドの大看板が鎮座している。「俺か、俺以外か。」ヘッドラインが強い。見入っているとやがてこの言葉に、王様ニュアンス以外の世界観を見出してしまった。
臨床心理学で人を理解しようとするとき、大前提になるのがこの構えではないだろうか。今日は、自他の境界線の話である。
「心理士です」と言うと「じゃあ人の心が読めるんですね」と返されることがある。残念ながら人の心は読めない。自分のことだってどこまで正確に捉えられているか疑わしいのに、他人が何を考えているのか、どのような気持ちでいるのかなんて、絶対にわからない。
蛇足だが、最近の私は意図的に「絶対」という言葉の使用を控えている。世の中に「絶対」なんて事柄はそうないわけで、「為せば成る、為さねば成らぬ、何事も」なのである。それでもまあやはり「絶対」ということはあって、ひとつは「人は必ず死を迎える」こと、ひとつは「他人のことはわからない」ことである。
脱線ついでに。実態が怪しすぎる(私見)ローランドさんだが、私は彼のことを嫌いになれない。それは彼が名門帝京高校サッカー部出身だからだ。私はガチでサッカーやってきた人=芯はしっかりした人という偏った認知を持っている。だからヴェルディユース出身の竹内涼真も好きだ。完全なるハロー効果である。ハロー効果とは、ひとつの良い特徴により、他の特徴も良い方向に捉えたり、その逆でひとつの悪い特徴によって、他の特徴も悪い方向に捉えたりすることをいう。いいかげん本論に戻るとしよう。
さて、心理士は人をみる仕事である。他人のことはわからない前提で人をみなきゃいけないとき、拠り所になるのは理論と自分だ。
理論とはつまり、人のこころは他人にはわからないので、行動や繋がりから考えましょうという行動主義や精神分析などである。理論は大切だ。先人たちが築き科学的に実証してきた客観としての理論は汎用性ある基準となる。理論が頭に入っていない専門家は、相手に損害を与えてしまう危険性が大きい。自戒を込めて言うが、理論に関しては勉強を重ね続けなければならない。
もうひとつの基準は、心理士として私がどう感じたかという主観である。「俺か、俺以外か。」主観を扱うときに前提になるのが、この言葉だと思う。
臨床の場面では、患者が生きている世界を理解することが究極のアセスメントとなる。サリヴァンのいう関与観察の姿勢で臨み、自他の境界線を超えた離魂融合の域を目指すのだ。仮に上手いことこの状態までもっていけたとしても、絶対に忘れてはいけない注意事項がある。それは、世界は俺と俺以外で成り立っているということだ。所詮「人のことがわかった気になっている」程度のことだと立ち留まれる真実性が必要である。
「俺か、俺以外か。」は、自惚れないための訓戒なのだ。