認知機能検査のテストバッテリーで、高齢者用うつ尺度(Geriatric Depression ScaleーGDS)をよく使う。抑うつ状態を測る検査なのだが、”生きていても仕方がないと思うことがあるか”とか、”今生きていることが素晴らしいか”など、死を匂わす質問項目が入っている。人によって反応は様々だが、中には明らかにトーンダウンする人もいる。御年80歳の方が死の不安を口にしたとき、私はどう反応したらいいか解らなくなる。
高齢者にとって死は他人事ではない。死は明日にも訪れるかもしれない問題であり、後期高齢期に入ると更に身近な問題となってくる。
ニューマンとニューマンは、死の概念の生涯発達を唱えている。人は死について青年期で捉えはじめ、中年期で具体的になり、高齢期で生涯の自然な部分として受けとめられるようになるという。
理論的にはそうでも、全員がすんなりときれいにいく程、人間は単純ではない。
キューブラー・ロスは死の受容5段階説を提案している。①否認②怒り③取り引き④抑うつ⑤受容である。自分に死期が近づいてきた時、まず「そんなことはない」と否認する。これは真っ当な防衛規制である。死を部分的に受容しはじめると、次に怒り、妬み、憤りなどの強い感情が湧き起こる。どうにか避けられないかと治療や神頼みなど考え、いくつかは実際に行動に移す。死が迫るにつれ、それまではなかった症状が出たり体力が落ちたりして、喪失感を持つようになる。このような段階を時間をかけてうまく通り抜けると、死を受け入れられるようになるという。
彼女は全ての段階を通じて大切なのは「希望」だと述べている。”希望が大事”とは、フランクルも「夜と霧」の中で言ってたな。そして更に、その希望をもてなくなる2つのパターンについても言及している。1つは「希望がもてない」と医療メンバーや家族が本人に伝えた場合である。もう1つは家族が高齢者の間近な死を受け入れられない場合である。外野の働きかけが及ぼす影響は大きい。
④抑うつ段階以降で外野ができることは、死に向かう人のそばでそっと手を握ることだけである。どのような言葉をかけるよりも、黙ってそばにいてくれることのほうが安心感をもたらす。姿勢は言葉を超えるのだ。
GDS検査を実施している最中、私は人生の晩年を迎えた先輩方へ160km/h級の豪速球を投げ込んでいるような、傷に塩を塗り込んでいるのではないかと申し訳ない気持ちになるときがある。それは心理士である私自身が死の受容ができていないからだと思う。どんな言葉を返すかは重要ではない。当惑しながらもそこから逃げずに逸さずに、心情が揺れている目の前のその方と一緒に佇むことが大切なのだと、自分自身に言い聞かせている。
参考:「高齢期の心理と臨床心理学」下仲順子編(2007)