「私らしいはたらき方」とは、狭義にとれば How-手法 である。手法から考え始めるととりとめなくなるので、今日はWhatどんな仕事を、Howどのように働くかという流れで語ってみたい。
自分に合う仕事の正体
私は”結果的に”今心理屋として働いている。高校生の頃から心理学は気になる存在であったものの、大学は社会学部を選んだし、会社員時代はアパレル業界や旅行業界などで営業や企画業務など、およそ臨床心理とは掛け離れた道を歩んできた。巡り巡ってここに辿り着いた感がある。
若い頃は皆、自分探しの旅に出る。自分とは何者なのか、何のために生を受けたのか、自分はどう生きていきたいのか、若きウェルテルのみならず、青年期における多くの若者が、成人期への通過儀礼としてアイデンティティの確立を突きつけられる。大概の人はその答えが見つからぬまま、モラトリアムの終焉と共に職業選択を迫られることになる。
ごくまれに、マーシャが唱えた「早期完了」に当てはまる人、例えば親が医者で自分も小さい頃から医者になることを疑わずに育ってきた人は、職業選択におけるアイデンティティの揺らぎを受けないかもしれない。しかしこのタイプのアイデンティティには脆弱性が指摘されており、失敗で混乱しやすかったり、融通が効きにくい面を持ち合わせることがあるという。
やりたい仕事が早くから決まっているのもいいが、それも良し悪しある訳で、自分に合う仕事なんて色々と経験しながらでないと見えてこないものなのではないかと思うのである。
私が20代の頃の世相はおおらかだったので、先輩から「今度の歓送迎会、裸で踊るぞ」と指示されたことがある。「全裸は嫌だ」と言ったら「全裸じゃない」と返され、それならと承諾したのだが(今思えばこの交渉テクニックは「ドア・イン・ザ・フェイス」である)、結局は約95%裸体(股間プロテクターとローラースケートと羽付きバンダナのみ装着)で踊ることが判明し、最初は「こんなのは俺のやりたい仕事じゃないっ!」と恥ずかしさから不承不承だったものの、会後に列席の多くの先輩や上司から「面白かったぞ」「やるじゃん」と声を掛けられて、なんか訳のわからない達成感とか、なんだか自分で塗り固めていた自意識の殻がボロボロと崩れ落ちていく感覚を覚えたのだ。恥を超えることで自分に自信を持つことができたし、皆さんに名前を覚えてもらったことで仕事のしやすさも格段に上がった。
何が言いたいかというと、裸になれ!ではなく(パワハラだし、セクハラだ笑)、信頼できる環境であればあえて身を任せて、ものは試しと色々と経験してみるのも悪くないのではないか、ということ。自分らしい仕事が、本当にそうかどうかは、頭で考えているうちは分からない。飛び込んで色々と実際に経験していくなかで、消去法的に自分に合う仕事が浮かび上がってくるのではないだろうか。
私らしいはたらき方
楽しいことは何時間ぶっ続けても疲れない。仕事に納得感と楽しさを感じていれば、体を壊さなければ、どんな働き方をしてもいいと思う。
たとえば最近の私は、休日も心理学に勤しんでいる。このコラムを書くのもその一環で、気晴らしであり研鑽である。そして苦ではない。やりたいからやっているだけのことだ。会社員時代も休日に自主的に仕事をすることはあったけど、今のように息をする如く自然に取り組む感じまでには至らなかった。やりたいことをやっていると、それが仕事なのか学びなのか、労働時間なのか遊び時間なのか区切りが曖昧になってくる。これが一番ストレスのない、私の #私らしいはたらき方 らしい。
心理職は、正社員としてひとつの職場で週5で働く人もいれば、私みたく複数の職場をパートタイムで掛け持ちする人もいる。今の私は一箇所に拘束されるのが嫌で嫌で仕方がない。ひとことに心理職と言っても様々な仕事があるので、今はたくさんの種類をつまみ喰いをしたいのだ。贅沢で我儘な働き方だなと自分でも思う。
本音を言えばお金はもう少し稼ぎたい。けどお金では買えない経験もある。昔、手相が読めるという同僚に「あなたは大金持ちにはならないけど、お金には困らない人生。大器晩成型かもね」と言われた。占いもおみくじも信じないタチだが、いい事を言われた時は信じることにしている。今の私の働き方は、この先の自分へのプレゼントになっている。
欧州に移籍したサッカー選手がインタビューで語っていた。「今までは練習でも試合でも、ペース配分をしながらやっていた。向こうではそれはサボっているとみなされる。先のことは考えずに今この瞬間に100%の力を出し切れと。それを連続させていくことで、自分の限界値が引き上げられている感じがした。」私は今、この姿勢をお手本にして、日々の業務に勤しんでいる。