2022年は人生で一番多く「死にたい・消えたい」を聴いた年であった。
心理屋としてカウンセリング業務を開始し4年が経った。経験値を上げる目的で年単位で所属先を変え、場所ほどに色が違う気づきを得てきたのだが、今いる地域に根付いた心療内科には実に様々な年齢層のそれぞれに特異な背景をもつ患者さんが来院する。「死にたい・消えたい」。どの心療内科・精神科・メンタルクリニック・その他施設でもこの言葉を浴びてきたが、回数で言えば今年が最多であった。
希死念慮(死にたいと願うこと)の言葉には、相手の口をふさぐ力がある。
よりよく生きたい理想と、それが叶わない現実。両者感の落差が大きければ大きいほど、絶望感は巨大となる。死の裏側には必ず生がある。「死にたい・消えたい」という言葉には、「生きたい・存在したい」願いが含まれている。この矛盾に満ちた圧倒的エネルギーを持つ言葉を前に、カウンセラーは何ができるのだろうか。
東京都福祉保健局のサイトに「死にたいと打ち明けられた時の対応」が掲載されている。至極もっともな内容だと思う。みなさんも友人や家族から希死念慮を受ける時があるかもしれない。参考として基本的な対応方針は知っておきたい。一次対応していただき、その後に専門家に繋げてもらえれば最高である。
死にたいと打ち明けられた時の対応 東京都福祉保健局www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp
相談される側としては、なにを言うかはさほど重要ではない。どう聴くかが重要である。「死のテーマから逃げない、逸らさない姿勢」「とってつけたような励ましや助言ではなく、気持ちに寄り添って聴くこと」。カウンセラーであればそこに「抱えている生きづらさは何からきていそうなのか」を追加したい。
真剣に死の話をするのはタブーではない。むしろそれから逃げたり逸らすことの方が自死へのリスクが大きくなる。逃げたくなる心情としては「死なれたらこちらが被害被るのではないか」「人の生死に関与する責任感を負いたくない」「感情に巻き込まれて自分自身が崩れそう」あたりかもしれない。死にたいと打ち明けられた時に自分の中に出てくる自動思考や感情は否定しなくていい。素直な自分の想いを受容しながら、ただ目前の支援として何ができるだろうという問いに集中する。
死ぬしか選択肢がなくなった苦しみに対して、来談者中心療法の創始者C.ロジャーズが唱える「共感的理解」をもって傾聴することである。人間である限り、超能力がない限り、他者の背景や心情を完全に理解することは不可能である。それでもなお「わかりたい」「わかろうとする」姿勢はつまり「誠実さ」であろう。誠実さは時に言葉以上のメッセージを発することができる。
抱える生きづらさは何からきているのか、カウンセラーであれば次の一手につなぐための思考も働かせる。うつ病などの気分障害からきているかもしれないし、生得的特性やパーソナリティが根底にあるかもしれない、生育環境によるものかもしれない。どれかひとつだけということは稀だし、複雑にこんがらがって解けなくなっているから苦しいのであって、また、原因探しは本質ではないのだがそれでも状況を脱するための一助として、カウンセラーからの支援策は出したい。負けるとわかっていても対峙しなければならない時がある。それは今この瞬間なのだ。
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私の本棚には、私が17歳の時に買った「完全自殺マニュアル」が鎮座している。アイデンティティ課題の葛藤の中で「消えてなくなったらどんなに楽か」と考えていた。この本は死を具体的に示してくれた。死ぬのは簡単なんだと解ったら「死ぬまでは生きてみるか」という気持ちが芽生えた。
皆は俺ほど単純で馬鹿ではないので、同じようにはいくまい。臨床では同じケースはひとつもない。皆が「死にたい」「消えたい」同じ言葉を使うけど、各々に違った背景や心情がある。唯一無二の個人を前に、私は私がやれる精一杯をやるしかない。自分の経験や価値観以上のことはできないという限界の中で。
自分の無力さに放心する事は多い。けど、やれることは結局これしかないんだと謙虚に心得て、研鑽し、また臨場に立ち戻っている。